2017年11月14日
何かを見たり聞いたりしたときにそれをそのまま受け取れるわけではない。
例えば人が何かを見たとき、その終着地点を脳とすると、脳に届くまでには空気や眼鏡、眼球、視神経といったものが間にはさまっている。時間を止めでもしない限り、それらがまったく同じ状態でいることはない。そして違うものの上を通ってきたもの同士がまったく同じであることも、おそらくないだろう。
つまり、誰かが何かを見た時、脳に届けられる情報は、一緒に見ていた他の誰かが受け取るそれや、違うときに同じものを見た自分のそれとは異なったものになる。同じものを見たのに違うことを感じるのは、「見た」が既に異なっているのだから、まったく自然なことだ。ただし、感じたことを言葉という記号に落とし込む時、あまりに似ている感じは同じ言葉に当てはめられてしまうことがある。それでも、言葉になる前の「感じ」がまったく同じことはないのだ。
どんな言葉にも言葉になる前の状態だったときがあり、そこには必ず「間」の力が働いている。我々は普段はそんなことは(私を含めて、たぶんほとんどの人は)意識していない。でも、たまには意識してもいいんじゃないかと思う。
それを意識してみたらどうなるのか。例えば、それを意識して書かれた文章がそうでない文章とどう違ってくるのか。「間」そのものを描くことはできるのか。既にそれを志向している作品はあるのか。そういったことを探求してみるのが本同人の趣旨である。
詩
2017年11月15日
カラスの鳴き声がガラス越しに聞こえる
ガラスはカラスより強いけどカラスの声には負けるんだ
詩
2017年11月16日
路電と高架が交差する街の駅前広場で
パチンコ屋の光が 眠ったビルの窓にこぼれて
私はそちらを見た 向こうもこちらを見ていた
私は引かれた 私だけの光に
私だけの三角形 たくさんの三角形
小説
2017年11月18日
鞄に物を入れると持つとこが重くなるね、と言ったのは私だったのか君だったのか忘れてしまったけど、どちらにせよその言葉を乗せた声が二人の耳に同時に響いたことに変わりはないね。ネタが尽きた君はそうやって当たり前のことをもっともらしくつなげて話す。君の記憶はなくなったんじゃなくて溶けたのさ。と私が言うと、溶ける前は手でつかめたけど、溶けてしまったらもう素手ではつかめないから君も一緒にすくい上げてほしいなと言ったので、きっと染み込んでしまっているから君ごと持ち上げることになるよと言ったら、それなら君は君自身も一緒に持ち上げないといけなくない? へぇ。じゃあ、観覧車でも乗りに行く? それとも高台にある公園のベンチに上ってみるとか? ……。君が口を閉じたので、私はカーテンを開けた。君の視線の先にある窓から明かりがもれて、中から私がのぞいた。
引用
2017年11月19日
彼の昔の評論、志賀直哉論をはじめ他の作家論など、今読み返してみると、ずゐぶんいゝ加減だと思はれるものが多い。然し、あのころはあれで役割を果してゐた。彼が幼稚であつたよりも、我々が、日本が、幼稚であつたので、日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない。
なんじを敬うだと? なにゆえに?
なんじはかつて重荷に耐える者の
痛みをやわらげたことがあるか?
なんじはかつて不安におののく者の
涙をしずめたことがあるか?
われを一個の男子に鍛えあげたるは、
われとなんじとをともに統べるもの、
全能の時と
永劫の運命ではないか?