大気圏の背中



   1


 白い鯨が青空に浮かんでいた日の昼時だった。
 渡瀬は目覚めたとき最初に何を見ていたか考えていたが、まったく覚えていなかった。たぶん寝室の天井か、右側の壁か、左側の壁に沿って置かれた机のどれかだろうが、可能性を絞り込んでみたところで頭の中から探し出せる気はしなかった。きっと奥深くにしまわれていて見つからないのではなくてしまわれなかったのだろう。なんとなく天井を見ていた気がして、目覚めたときに天井を見ている自分を想像した。目を少しずつ開くと、天井が少しずつ目に入ってきた。天井は白っぽくて、ところどころに見覚えのある凹凸があった。その様子を何度か繰り返し思い浮かべていると、それが記憶になってしまいそうな気がしたので考えるのをやめた。
 昼は定食屋になる居酒屋の隅の天井付近に据え付けられた薄型テレビの中では、バラエティ番組のワンコーナーなのか記憶力テストのようなことをやっていた。目覚めたときの記憶がテーマらしく、解説役の大学教授だかの問い掛けに対して司会者に振られた芸人らしい出演者が斜めにうつむいて考え込んでいた。数秒後に顔を上げ、真面目な表情で相方に向かって手を差し出しながら「私はこの人を見ていました」と言うと、スタジオ全体から歓声が上がった。相方が「なにばらしとんねん」と言いながら顔を両手で覆うと、歓声は温かみを帯びた笑いに変わった。大学教授だかは、その笑いの渦から微妙な距離を保ちながら満足そうに微笑んでいた。 
 渡瀬の膳には焼き魚と雑穀ごはんが一口ぶんずつ残っていた。渡瀬は焼き魚をつまんだ。箸と器がこすれる音が耳に入ってきた。口に入れた。続けて雑穀ごはんをつまんだ。また箸と器がこすれる音が耳に入ってきた。口に入れた。噛みながらちらっと上目で前を見ると、渡瀬と同じ焼き魚定食を頼んだのにだいぶ前に食べ終わってスマートフォンを眺めている相田がいて、機嫌がいいとも悪いとも判断がつかない表情をしていた。渡瀬の視線は相田の顔の上をすぐに通り過ぎて、右上前方のテレビに再上陸した。バラエティ番組はCMに切り替わっていた。子供がタオルに顔をうずめて、笑顔で「パパのにおーい」と言った。渡瀬は相田に目覚めたときの記憶についてどうやって尋ねるか考えていた。
「いつでもいいですよ」
 渡瀬が目を左下に動かすと、さっきと同じ場所に同じ姿勢で相田がいた。渡瀬がまばたきを始めた。視界がだんだん狭まってまぶたが閉じた瞬間その裏に光の線と相田の影が映った。それらはまぶたが開いて視界が戻ってきた後も残っていた。その影が重なった瞬間、相田がスマートフォンの画面をタップした。光と影はじわじわと消えていった。
 渡瀬は神ではないので相田が実際に何をしているのかはわからないが、渡瀬の中の相田は電子書籍を読んでいた。画面の片側をタップするか、めくりたい方から逆の方向に向けて指を少しスライドして離す(スワイプする)とページがめくられるやつだ。紙の本と違って、指先が滑ってページがめくれなかったり、紙が重なっていてページを飛ばしてしまったりするなんてことはない。本が紙という制約から開放されて、単なる文字の集まりになる場所だ。とはいえ、タップしてからページがめくられるまでのタイムラグを待ちきれずに何度もタップしてページが一気に繰られてしまうといった、似たようなことは起こりうる。例えば、タップされたら黙って次のページを取りに行って表示し終わるまで帰ってこないのではなく、「私はあなたにタップされました。これから次のページを表示する処理を開始します。温かいお茶でも飲みながらしばらくお待ちください。個人的にお茶請けとしておすすめなのは……」とでも喋ってから取りに行けばそのような事故は減るだろう。まあ相性というのもあるかもしれない。それに電子書籍には、ウェブブラウザのように大きな仮想的なページを部分的に画面に映してスクロールしながら読んでいくのとは違って、一画面に表示できるぶんの一定の文字のまとまりごとに区切って通し番号を振るという、紙の本を模したページの概念が残っている。更に、電子書籍のページは「読者」が文字の大きさを選んで一画面ぶんの文字数を再計算した上で番号を振り直すことができる。「選んで」というのは、大抵の電子書籍ではズーム率何パーセントといった比較的アナログな拡大縮小はできず、あらかじめ用意されたせいぜい十六進法の一桁で収まる程度の選択肢の中からしか選べないということだ。不便に思えるが、その制約を力ずくで取り払うと文字を文字のまま保持しているという電子書籍の特徴が失われてしまう恐れがあるし、デジタルに慣れ切った我々に見合った制約とも言える。……あの画面にはどのように文字が配置されているのだろう……。
 相田がまたタップしたのに気づいて渡瀬は我に返った。どのくらい呆けていたのか、その間に相田君は何回タップしたのだろうか。とりあえず目を逸らそうとテレビに視線を向けると、子供がタオルに顔をうずめて、笑顔で「いいにおーい」と言い、洗剤のパッケージとロゴマークが映し出された。パパのにおいがいいにおいに変わるまで何秒かかるだろう。CM一本の長さが十五秒だとすると、せいぜい十秒程度か。その程度なら……いや、結構長い。もし三十秒だったら……ああ。
 CMが明けた。左上の時刻表示が目に入った。いつから表示されていたのかはわからなかった。CMの背景が白くて隠れていたのだろうか。もしかするとCM中は非表示になっていたのかもしれない。渡瀬はこのとき、今日初めてテレビ局の存在を意識した。その瞬間、渡瀬の頭の中で出演者と視聴者だけのものだったテレビ番組が、裏方や広告主など、陰で支える人たちのものでもあるのだということが認識され始めていた。
 それよりそろそろ戻った方がよさそうだ。渡瀬はガラスのコップを傾けて麦茶を口に含みながら、周りに視線をさまよわせた。相田は指を画面の下から上にスライドさせていた。相田君が次にタップしたら声を掛けよう。渡瀬がそう考えていると、相田は指を上から下にフリックして、顔を少し上げた。
「そろそろ行きましょうか」
 渡瀬は、うなずいて席を立った。テーブルの上を軽く見回して、この店は伝票を使っていないことを思い出した。その間に相田はさっさと席を立ってレジの方へ歩いていき、待ち構えていた店員に向かって「別々で」と言いながらポケットから財布を出して千円札を釣り銭受けに置いた。渡瀬はレジと天井の間に飾られている額縁を見ながら相田の後ろに移動した。相田君は店員さんがお釣りを用意している間、財布の中を見ているようだった。相田は両足を真っ直ぐ伸ばして、かかととかかとの間を少し空けて立っていた。店員が釣り銭を差し出すと、軽く頭を下げながら右手で受け取って財布の中に入れ、入口に向かった。渡瀬は一歩前に進み、千円札を店員に手渡した。釣りを待つ間、レジの隅に置かれている豚の貯金箱を見ていた。募金の文字も何も書かれておらず、ただ貯金箱としてそこにいる豚。インテリアとして置かれているのか、財布から溢れた小銭を入れられるようにしているのか、店の意図はわからないが、妙な存在感があった。渡瀬は会計のたびに気になりながらも、その桃色の背中に開いた細長い溝に触れる機会はまだ訪れていなかった。
 店員から差し出された百円玉二枚を受け取りながら小声で感謝の言葉を述べ、財布の小銭入れの部分に百円玉をすべり込ませてふたを閉めた。ふと視線を感じてそちらへ顔を向けると、豚の貯金箱と目が合った。店員は忙しいのかもう奥に引っ込んでしまっていて、客も渡瀬の他にいなかったので、この空間で二人きりになったようだった。渡瀬と豚の貯金箱がいる居酒屋の客間は壁やドアで仕切られて、渡瀬が歩いてやってきた外や、この奥にあるであろう厨房とは別の空間のように渡瀬は感じていた。
 物音がして、奥から店員が出てきた。渡瀬の方は見ず、渡瀬の座っていたテーブルに向かっていき、渡瀬が食事をした場所を片づけ始めたので、渡瀬はうつむいて早足で入口に向かった。
 引き戸になっているドアを開けると、明るかった。渡瀬は未知の世界に降り立ったような気持ちになって、少しずつ方向感覚が戻ってきて、ここがどこか、これからどちらへ向かえばいいのか体が理解した。
 渡瀬がそちらへ体を向けると、相田が入口の横の壁すれすれに立ってスマートフォンをいじっていた。
「あ、待っててくれたんだ。一人で戻れるのに……」
 渡瀬は建物から出たときの酔いが抜けきらず、そこが頭の中であるように、考えたことが言葉に変わった瞬間に声にした。言ってから「しまった」と思ってもおかしくなかったが、このときはあまりに自然に口から出ていったので、疑いもせず過ぎたこととして認識していた。
 渡瀬の言葉は渡瀬から離れず渡瀬の言葉として相田に届き、相田の中の渡瀬が受け取って再生していた。相田は一瞬間を置いてから渡瀬の顔を見た。渡瀬の顔を見た相田は無表情という感じだった。渡瀬はそのとき自然な表情をしているつもりだったが、もしかすると自分もこんなふうに見えているのかもしれないと思った。
「……当たり前でしょう」
 相田は渡瀬の目を見ながらそう言って、言い終わるとすぐに目を逸らしてスマートフォンをしまった。渡瀬はうれしさのようなものを感じた。相田が会社の方へ歩き出したので、渡瀬も後に続いた。砂利が音を立てて、渡瀬は一瞬地面の方を見た。
 相田の後ろを歩きながら、渡瀬はもしかするとさっきの「当たり前」は「待っててくれたんだ」ではなく「一人で戻れる」に対する言葉だったのではないかと思い当たって焦り出した。無表情に見えていたのは本当はあきれていたのだろうか。うれしそうにしているのを見て変なやつだと思わなかっただろうか。相田は前を向いて歩いていた。右足と左足が交互に動いていた。両足のかかとの位置が真っ直ぐに揃っていてきれいだった。落ち葉やマンホールがあっても乱れないのがすごいと思った。
 渡瀬は相田の足から逃れた落ち葉を踏んで歩いていた。落ち葉はかすかに乾いた音を立ててつぶれた。渡瀬は一人のときのペースを取り戻しつつあった。
 この道を歩くときは何も考えずに光や音、肌に当たる風や靴底の感触を収集するのが普段の渡瀬だった。往路では見かけなかった普段の渡瀬の姿がゴーストのように浮かんで渡瀬と重なった。渡瀬はいまの相田君は普段の相田君なのかなと思った。ふと、私は相田君が見えているので相田君について知ることができているけど、相田君は位置的に私を見ることができないのはよくないと思った。渡瀬は歩く速度を上げて相田の右側に並んだ。途端、渡瀬は相田に見られることを意識して、一人でいるときの渡瀬ではなくなっていた。渡瀬は並んだことを少し後悔したが、いまさら元の位置に戻るわけにはいかなかった。とりあえず何か話そうと視線をさまよわせると、マンホールが目に入った。桜の花があしらわれたマンホールだ。渡瀬はこのマンホールについて話すことができる。このとき渡瀬は何か話すことに意識が向いていて、そもそも何か話すべきなのかどうかは考えていなかった。ただ、マンホールの話題が適切なのかは検討していた。地雷というやつだ。残念ながら相田君にマンホールに関するトラウマのようなものがないかどうかはわからないが、マンホールは地雷率の低い話題だと思われるので大丈夫だろうと思った。
「私、買い物していくので先に戻ってください」
 相田はそう言いながら少し歩く速度を速め、逆に遅くなった渡瀬の目の前を通って右手にあったコンビニの入口に立った。ほどなく自動ドアが開いた。
「あ」
 相田は首を回して会釈しながらコンビニに入っていって、すぐに棚の陰に隠れて見えなくなった。自動ドアが閉まった。
 渡瀬は前に向き直って歩き出した。蝉の声が降ってきていた。出どころは少し遠く感じるので、街路樹の桜並木ではなく我々を斜め前方から緩やかに見下ろしている公園からだろう。放たれた声は尾を引きながら着弾し、何度か跳ね回ってから蒸発していった。見上げると、葉の隙間から光が溢れて輝いていた。
 ふと体が押し戻されるのを感じた。正面から風が吹いてきていた。渡瀬は両手を開いて風を受け、感触を楽しんだ。半袖の腕と顔にも風を感じていた。腕と顔は手と違って、受け止めるのではなく表面を撫でられているようだった。風が顔の横を通過するとき、風の音を感じた。少し遅れて、植え込みの木が揺れる音が聞こえた。その音は、木の真横を通り過ぎるとすぐに聞こえなくなった。
 前から人が歩いてくるのが見えた。渡瀬は歩道の右寄りを歩いていて、人影も向こうから見て右寄りを歩いていたので、このまま真っ直ぐ進めばすれ違えると思った。
 十メートルほどまで迫ったところで、前から歩いてきたのは同じ会社のSだとわかった。向こうも気づいたようで、目が合った。顔は知っているが仲がいいわけではないので、声は掛けずに会釈しながらすれ違った。Sも会釈しながら、すれ違うときに小声で「お疲れ様です」と言ったようだったが、渡瀬は一瞬息を止めただけで何も言わなかった。右から車庫のにおいがして、薄れた。
「ぉ、相田」
 後ろからSの声がした。どうやら相田君が後ろを歩いているようだ。渡瀬は振り返って確認したい気持ちが湧き上がってくるのを抑えつつ、歩く速度を落とした。後ろから相田君が近づいてきているような気がした。渡瀬は後ろに意識を向けながら前へ歩き続けた。
 警報機の音がして顔を上げると、踏切が目の前に迫ってきていた。相田はまだ渡瀬の視界に入ってきていなかった。このまま進めば遮断機が閉じる前に渡り切れることは確実だったが、渡瀬は止まる方を選んだ。渡瀬が立ち止まった直後、相田が渡瀬を追い越していって、遮断機から伸びている見えないラインの寸前で止まった。相田は渡瀬がいない方に顔を向けて、気づかないふりをしているようだった。黄色と黒の棒が近づいてきて、相田が一歩後ろに下がった。相田が渡瀬の方を見て、軽く会釈し合って、前に向き直った。
 踏切の中の線路の上を電車が通っていった。電車の中は薄暗く、つり革につかまって立っている人の顔はよく見えなかった。警報音が止むと同時に遮断機が開いていった。
 渡瀬は踏切に踏み込んで、線路の溝に足をとられないように慎重に歩いた。相田がまた少し前に出た。渡瀬は普段よりも速く足を動かした。一足先に踏切を渡り切った相田は、渡瀬の方を横目で見ながら右折を開始した。
 渡瀬たちの会社は、この踏切を越えて二ブロックずつ北西に進んだところにあった。渡瀬一人のときはいつもどこで右折するか迷うのだが、誰かと歩くときはいつも渡瀬が踏み切りで遅れるので、少なくともここで曲がるかどうかは相手に任せればよかった。
 渡瀬も少し遅れて右折を始めた。カーブの内側にいる渡瀬の方が曲がるのに要する距離は短いので、二人が右折を終えるタイミングはほぼ同時だった。渡瀬はいつもの習慣で線路の方を見た。柵の内側にはところどころに黄色や白の花が咲いていて、外側には隙間なくバラが植えられていた。咲いているものもあるが、上の方で切られているものが多かった。
「これってなんで切ってあるんだっけ」
 渡瀬は独り言のように言った後、独り言にしては声が大きかったと思い、相田に話し掛けたのだと思った。
「さあ……、枯れたままにしておくのはよくないんじゃないですか。木を間引くみたいに」
「やっぱりそうかな」
 やっぱりということは、私は相田君と同じようなことを考えていたのだろうか。確かにそんなことを考えていたような気がした。
 左手の細道から車が出てくるのが見えて、エンジン音を立てながらこちらの方へ曲がってきた。渡瀬は少し右へ寄った。首のないバラがすぐ隣を通り過ぎていた。相田は歩く速度を一瞬速めてから右へ寄って、渡瀬の前に出た。渡瀬ほど右寄りではなかったので、渡瀬の目の前で相田の右肩が揺れていた。車は二人の左側を通過していった。車の左側面には会社名が書かれていたようだったが、二人とも読み取ることはしなかった。
 車が通り過ぎた後も、相田は渡瀬の前を歩いていた。右の頬が見えていたので、右前方を見ているようだった。渡瀬は相田を見ていた。
 相田の後ろ姿がかなり近くにあるのに気づいて、渡瀬はとっさに歩幅を狭めた。アスファルトが鳴って、自分の靴が音を立てたのだと思った。相田は一瞬首が伸びて、ゆっくり元に戻った。渡瀬はすぐに相田の左に並んだ。
「ちょっとつまずいちゃって」
「歳ですか?」
 相田はちょっと照れたような表情で渡瀬の方を一瞥して、また線路の方を見ていた。
 二人が左折する交差点が見えた。そこでバラが途切れて、ほとんど茶色くなったガードレールになり(バラに触れそうな端の部分だけ鈍い緑色に塗られていた)、道床の砂利や枕木がアスファルトや錆び付いたコンクリートに覆われて、黄色や白の花はススキに変わっていた。渡瀬はいつかの深夜、ここにトラックが止まっていたことを思い出した。

 会社が入っているビルに着いた。そういえば、会社の外では仕事の話をしないというルールを決めたんだったな……といまさら思い出しながら(本当はずっと覚えていた気がするので、思い出すふりだったかもしれない)、相田に続いてビルに入った。あのルールはビルに入ったら解除されるのだろうか、それともオフィスに入るまで有効なのだろうか。まあ、ビルの中のオフィス以外の場所は緩衝地帯というか、国境付近というか、仕事の話はしづらいのだけれど。
 エレベーターホールに人はいなかった。ビルに入ったときから、渡瀬たち以外から発せられたような不規則な、電灯やエアコン以外の物音は聞こえなかったし、人影も見えなかったので予想通りだったが、はっきりと確認して渡瀬は少し肩の力を抜いた。前を歩いていた相田は二基並んだエレベーターの間の壁に近づき、黒い三角形がプリントされた四角いボタンを押した。三角形の周りの余白部分がオレンジ色に光った。相田がボタンから指を離して左に一歩移動したのと同時に相田の目の前のドアが開いた。相田は音を立てずにエレベーターの箱の中に乗り込んで操作盤の前で振り向き、左手でドアを押さえながら上の方を見て、目の前を見て、渡瀬の方を見た。渡瀬は慌ててエレベーターに乗り込んで、どこに立とうか一瞬迷い、ど真ん中で振り向いた。相田は入口の方を見ながら右手で閉まるボタンを押していた。ドアが左右から同時に出てきて、真ん中で閉じた。足元が少し揺れて、体が床の方へ引っ張られるのを感じた。
 相田は操作盤の方を向いたままで立っていた。左腕と両足は真っ直ぐ伸びていて、右腕は肘より先が胴体に隠れていた。渡瀬はポケットから腕時計を取り出して左腕に巻いた。気持ちが引き締まった気がした。相田が顔を上げてドアの上の方を見た。渡瀬は腕時計のベルトに触れながら上を見た。横に整列した数字が順番にオレンジ色に光っていた。少し体が沈み込んで浮き上がる感覚の後、右から三番目の数字が光り、足元が静止してドアが左右に開いた。
「どうぞ」
 相田は左手でドアを押さえ、軽く左を向きながら言った。渡瀬は軽く頭を下げながらエレベーターから出た。足音が響いた。
 左側の壁にはまっているガラス窓が開いていて、網戸を通り抜けて風が吹き込んでいた。その風はとても気持ちがよかった。ついさっきまで外を歩いていたはずなのに、同じ風とは思えなかった。



   2


 会社のロゴが目の高さに描かれているドアを手前に開き、ドアを押さえながら中に入ろうとすると、すぐに手からドアの重みが消えた。無人の受付を素通りして右手に会議室のある廊下のようなスペースを進むと、広々としたオフィスに出た。まだ昼休みなので人はまばらで、机に突っ伏して寝ている人もいた。渡瀬は左に曲がり、さらに左手の開け放されたドアを通って、薄い壁で区切られたスペースに入った。
「あ、おつかれさまです」
「お疲れさまです」
 中村は自分の席で弁当を食べていた。
「先生に教えてもらったお弁当屋さん、気に入っちゃいました。毎日通っちゃいそうです」
「それはよかったです。でも、山川さんは不満そうじゃなかったですか?」
 渡瀬は今朝の報告会で山川から文句を言われていたのだった。
「え、いえ、そんな風には見えませんでしたけど……」
「そうですか。それならいいんです」
「あとで聞いてみますね」
「いや、大丈夫です、忘れてください」
「そうですか、わかりました」
 中村はちょうど食べ終わったところで、容器などを袋に入れると、捨てに行った。渡瀬は軽く伸びをして、講師用の席に座った。相田は自分の席に着いてPCを起こした後、足元に置いてあった鞄から文庫本を出して読み始めた。渡瀬の位置からだと灰色っぽくて何も書かれていない裏表紙しか見えず、どんな本なのかわからなかった。視線をずらすと、白っぽい紙に何本もの縦線が並んでいるのが見えた。それが文字なのだということはわかったが、渡瀬の視力ではまったく読み取れなかった。
 渡瀬はあきらめて、この後のことを考え始めた。今日は午前中が山川の担当で、午後からは渡瀬の担当だった。昼過ぎは講義で、夕方は演習だ。演習中は待ち時間が多いので、自分が所属しているチームの様子を見て、この席からでもできる雑用でもこなしながら見守るつもりだった。
 講義や演習のプログラムは昨年も使ったものをマイナーチェンジしたもので、資料もだいぶ前に完成していたので研修が始まる前に目を通して予習済みだった。受講者のレベルによっては研修中に見直す必要があるかもしれないと覚悟してはいたものの、始まってみるとほぼ想定通りの反応で、研修も後半に差し掛かったいまではほとんど準備はいらなくなっていた。講師に指名されたときはどうなることかと思ったが、本業の方で大きなトラブルが起こることもなく、研修という点では順調に進んでいると言えたし、上司にもそのように報告してあった。研修は順調なんだけど……。
 相田が横目で渡瀬の方を見た。しまった、つい口に出してしまったのだろうか。何か言い訳をしようかと思ったが、相田の視線は何ごともなかったように本のページに戻っていて、声を掛けるタイミングは一瞬で過ぎ去っていた。目が合ったわけではないので、相田が渡瀬を見たことに渡瀬が気づいていると相田が思っているかはわからなかった。渡瀬は気づかなかったふりをすることにして、スマートフォンを取り出してSNSに書き込んだ自分の投稿のリンクをタップした。ブラウザが一篇の詩を表示した。

  植物はとほくけぶる外輪山の緑のいろ。
  ここはたゞ白昼
  玉座の怒る噴煙である。
  生ものとては火口に飛び交ふ燕のむれだ
  断崖の影にかくれて
  燕窩にならぶ幼い卵だ飛翔の夢だ
  お、晴れるぞ霧が。
  海をしたがへ
  雲をとばし
  てつぺんに僕を飾つてひらく山岳!

 この間渡瀬が中村に教えてもらった、仲村渠の「頂上」という詩だった。仲村渠は「なかむら・かれ」と読み、那覇生まれの詩人で、本名は仲村渠(なかんだかり)致良と言うそうだ。渡瀬はそれを聞いたとき、名字が氏名になるなんてなんてうらやましいと思った。
 中村は登山が趣味で、月に一度は登っているらしい。この詩は、それを聞いた相田が教えてくれて、なんとなく親近感を覚えたのと、後半の勢いが気に入って、いつも山頂に着くとこの詩を思い浮かべて心の中で「山岳!」と言ってとても誇らしい気持ちになっているとのことだった。渡瀬もその話を聞いてから、もやもやした気持ちを解きたいときにこの詩を眺めるようになっていた。
 そこに受講者の二人が戻ってきて、それぞれ中村と相田の隣の席に着いた。渡瀬はそれを契機にスマートフォンをしまい、資料の冊子を繰って今日の最初にやる予定のページを開いた。腕時計を見ると、十三時十分を指していた。あと五分で昼休みが終わり、研修を始めるはずの時間になる。しかし中村がまだ戻ってきていなかった。
「中村君、見ませんでした?」
 渡瀬は発声練習も兼ねて大きめの声を出した。
「中村なら山川さんと話してましたよ」
 中村の隣の席に座っているKが言った。渡瀬が応えるより先に、
「あの二人、仲いいですよねぇ」
 と、Kの向かいのAが言った。そのとき、Aの隣で相変わらず本を読んでいた相田君の頭が少し揺れた気がした。
「そうですか、ありがとう」
「呼んできますか?」
「いえ、大丈夫です。時間になっても戻ってこなかったら私が呼んできます」
「わかりました」
 そう言ってKはAの方を向いて不満そうな顔をした。AはニヤニヤしながらKの視線を受け止めていた。相田はまだ本に目を落としていて、ちょうどページをめくるところだった。渡瀬はオフィスチェアーの背もたれに背中を預けて天井を見た。白くて細長い円柱形の蛍光灯がいくつも光っていて、白い光はときおり灰色に瞬きながら部屋を照らしていた。

 中村は十三時十三分に戻ってきた。
「すみません、遅くなりました」
 きっと山川さんがなかなか離してくれなかったのだろう。
「おかえりなさい。まだ時間になってないから大丈夫ですよ」
 相田君もまだ本を読んでいる。
 中村は会釈しながら席に着いた。その直後、相田が本を鞄の中にしまった。腕時計を見ると、十三時十四分になったところだった。中村は相田に向かって、小声で
「お待たせ」
 と言った。相田は中村の方を見て、口を少し開きかけたが、何も言わずに口を閉じて首を軽く横に振った。中村は微笑んで資料の準備を始めた。KとAはその様子を横目で見ていたが、渡瀬に見られているのに気づくと資料に目を落とした。その視線のやり取りを相田が気づいたようだったので、渡瀬は失敗したと思った。
 中村が資料を出し終えたのを確認した渡瀬は、
「では、そろそろ午後の講義を始めます。今日はいい天気なので、居眠りしないようにがんばりましょう。よろしくお願いします」
 と言って四人の顔を見た。
「よろしくお願いします」
 四人は体をこちらへ向けて、軽く頭を下げながら声を揃えた。こういうとき、初めに声を出すのは不思議と相田君のことが多いのだった。もう少し詳しく説明すると、相田の「よろ」に続いて中村とKが「し」の辺りから入り、Aは「お」から入ってくる感じだ。他の三人が誰かが声を出すまで待っているのか、自分のタイミングで言おうとしているのかはわからなかった。

「きみ、中村君に変なこと吹き込んだでしょ」
「はい?」
 朝の報告会が終わり、会議室から出る列の最後尾にいた渡瀬の前を進んでいた山川が急に振り向いて唐突な発言をしたので、渡瀬は反射的に聞き返してしまった。山川は肩を寄せて、
「はい? じゃないよ、もう。私が魚苦手なの知ってるよね?」
 と言って机に左手を乗せた。渡瀬はその手と、反対側で半分ポケットに入れられている右手を交互に見て、今朝配られた書類はどこだろう、と思った。もう一度机の上に置かれた手に目をやると、その下に書類があった。手首には金属ベルトの腕時計が巻かれていた。視線を引くと、渡瀬の左手にも腕時計があった。先輩にもらった革のベルトの腕時計。山川は唇を結んで戸惑ったような表情で渡瀬を見上げていた。渡瀬は腕時計に触れた。山川の脚は少し傾いていたが真っ直ぐに伸びていた。

「先生、一分経ちましたけど」
 渡瀬は中村の声で我に返った。渡瀬は研修スペースの講師用の机に座っていた。中村は顔を渡瀬の方へ向けて正面から渡瀬を見ていて、KとAは渡瀬と資料の間くらいを向きながら渡瀬の方を見ていて、相田は資料の方を向いたまま横目で渡瀬を見ていて、渡瀬が顔を上げると一人だけ目を逸らした。
「あ……ごめんなさい。じゃあ、いまのページで気になることがある人は、発言してください」
 渡瀬は首を動かして四人を見渡した。KとAは資料に目を落とし、中村は三人の様子を横目と上目で見た。相田は中村を見返して、軽くあごを動かした。中村は相田に向かって軽くうなずくと、渡瀬の方を見て
「いいですか?」
 と言った。渡瀬は中村の方を向いてうなずきながら、
「どうぞ」
 と言った。腕時計が蛍光灯の光を反射して白く光った。

 あの頃、渡瀬は腕時計をしない主義だった。時刻の確認は携帯電話で事足りていたし、肌に金属が当たっているのがどうしても慣れなかった。就活中はさすがに付けるようにしていたが、付けている間ずっと左手首が気になって仕方がなかった。一度、集団面接か何かで腕時計をどこで買ったかという話になり、家電量販店で買ったとは言えずにいとこにもらったことにした。この質問に限らず、当時の渡瀬はプライベートな質問に対していくら面接とはいえ失礼だと思って憤っていたものだが、何も本当のことを言う必要はないのだし、現に渡瀬もとっさの思いつきとはいえそうしていたのだった。いまやっている研修だってその延長線上にあるはずなのに、雰囲気がまったく違うのはなぜだろう。立っている場所が違うからなのか、それとも向きが変わっているのか、その両方なのか、渡瀬にはわからなかった。

 中村が発言している間、KとAはうなずきながら聞いていた。Kのうなずきにはメリハリがあって、自分が肯定できると思ったところでうなずいているようだったが、Aは肯定するというよりも話を促すためにうなずいてるような感じだった。相田は軽くあごを上げて資料を下目で見ながら聞いていて、ときおり資料に何か書き込んでいた。なだらかな弧を描いた人差し指がきれいだった。
 発言を終えた中村は、
「以上です」
 としっかり発声して、手をひざの上に置いてから息をついた。
 渡瀬は「ありがとうございます」と言って、中村の発言に対してコメントを始めた。渡瀬は喋りながら、坂口安吾の「教祖の文学」の一節を思い浮かべていた。

 彼の昔の評論、志賀直哉論をはじめ他の作家論など、いま読み返してみると、ずゐぶんいゝ加減だと思はれるものが多い。然し、あのころはあれで役割を果してゐた。彼が幼稚であつたよりも、我々が、日本が、幼稚であつたので、日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない。

 渡瀬はこの部分が嫌いだった。
 渡瀬がコメントし終わると、中村は渡瀬の方を見て、正面を向いて上を見た。
「なるほど……そうですね。その方がよさそうです」
 中村は言い終わる辺りで渡瀬の方を見た。
「はい。まあ、ここは演習でやるので、できれば両方のやり方を試してみてください。もし、中村君のやり方の方がいい理由が見つかったら、ぜひ教えてもらえるとうれしいです」
 中村は軽くうなずいて、
「わかりました」
 と言って目を落とした。
 中村は資料に向かってメモを取り始めた。KとAも何か書いていて、相田は頬杖をついていた。何か考えているようだった。視線の先はあいまいだったが、渡瀬は中村の手元を見ているような気がした。

 講義が終わって、休憩時間になった。KとAは連れ立って部屋を出ていき、続いて中村と相田も別々に出ていったので、研修スペースには渡瀬一人が残った。とはいえ開け放されたドア越しに社長の頭が見えるし、誰かの話し声もかすかに聞こえてくるので、一人になったというよりも人から離れたと言った方が正確だった。適度な緊張感が残っていた。渡瀬はPCを起こして内職の準備を始めた。ウェブブラウザを起動して、プロジェクトチームのチャットのページを開いた。緊張感が高まるのを感じつつ新着メッセージを確認すると、見知ったアイコン同士の気楽なやり取りだけが下に向かって積み上げられていた。トラブルの可能性に対する緊張感は和らぎ、チャットでつながっていることに対する緊張感だけが残った。
「順調みたいで何よりです。座学終わったので反応できます、何かあれば」
 とキーボードで入力して投稿し、無事に反映されたことを確認して、両手の人差し指をFとJの突起から手前に向かって軽く撫でるように離した。
 リモートでできることは限られているので、自分が主体的に進める作業は持たずサポートに徹するのだが、渡瀬はあくまで対等にやろうと心掛けていた。チームから離れて外からプロジェクトを眺めるといろいろとアラのようなものが見えてくるが、それは視点が変わったことだったり、情報量が少なかったりすることによるものなので(当然、逆に見えていないこともたくさんある)、偉くなったわけではないのだということを自分に言い聞かせていた。これは受け売りというか、渡瀬が研修でいまとは逆の立場だったときに学んだ考え方だ。
 腕時計に目をやると、休憩時間の三分の一が過ぎていた。さっき投稿したメッセージの下部には、サムズアップが二つ、笑顔の猫が一匹、両腕で頭上に丸印を作っている女性が一人、踊っているバニーガールが一組、合わせて五つのリアクションが並んでいた。
「へえ、同じアイコンでも、まとめて表示されないんですね」
「リーダーのこだわりで……相田君、覗きはよくないですね」
「通りがかっただけなんで」
 相田は中村の席の方から渡瀬の後ろを通って自分の席に着いた。渡瀬は軽くため息をついて、机の中から演習の資料を取り出した。相田は鞄の中からペットボトルを取り出して飲み、それを鞄にしまって、入れ替わりに文庫本を出して読み始めた。左肘をついて、その先の人差し指と中指、薬指の三本で本の背を支え、親指で左のページを、小指で右のページを押さえていた。
 渡瀬はPCのモニターを見ながら、目の端で本を読む手を見ていた。キーボードの上で無意識に触れた腕時計の文字盤は冷たかった。渡瀬は両手をひざの上に持っていって、文字盤を温かくなるまで撫で続けた。

 今日は金曜日だったので、渡瀬と相田は飲みに行くことになっていた。二人とも用事や体調不良がなかったらという条件付きの取り決めで、先週までは相田に用事があるということで中止になっていた。昼前に部長から来たメールに「今日は開催」と書いてあって、ずっと断られると思っていた渡瀬はうれしかったが、すぐに複雑な気持ちになった。
 演習と一日のまとめが終わり、次回の予定を確認して解散となった後、KとAは足早にこのスペースから出ていった。彼らは毎週末、いろいろなグループの集まりに参加していた。今日は他社の人も交えてI駅で集まるのだと休憩中の雑談の際に話していたので、それに向かったのだろう。中村は、山川と他のペアの四人で飲みに行くそうで、渡瀬と相田に丁寧にあいさつして出ていった。
「中村君は丁寧だねぇ」
 渡瀬がつい口に出すと、PCを眠らせる準備をしていた相田は渡瀬の方へ顔を向けて、
「でも、あの子の部屋、すごいんですよ」
 と言ってPCの方へ向き直った。え、すごいって何が? 丁寧、でも、ってことは、汚いってこと? 渡瀬が戸惑っていると、相田はPCを眠らせて、資料を鞄の中にしまい始めた。渡瀬は既に退社準備を終えていたので、引き続き中村のことを考えようとすると、相田が渡瀬の方を見ながら机の引き出しを開け閉めした。
「大丈夫、今日はお昼前に施錠してきたから」
「そうですか。それは失礼しました」
「いいえ、ありがとう」
 相田は退社準備を再開した。渡瀬はオフィスチェアーを左右に回しながらなんとなく入口の方を見た。社員同士で声を掛け合ったり、ロッカーに荷物を取りに行ったりしていて浮足立った雰囲気だった。簡単なドアと、壁とも言えないような仕切りで区切られているだけなのに、渡瀬がいるこのスペースとは別の空間のようだった。渡瀬は、こうやってすぐそこにある別の空間を眺めるのが好きだった。テレビや映画のように切り離されているのではなく、地続きで、行こうと思えばすぐに行けるけど、別の場所。
「準備できました」
 相田は机の上に置いた鞄に両手を乗せて渡瀬の方を見ながらそう言って、うつむきながら椅子を引いて立ち上がった。渡瀬も椅子を引きながらかがんで机の下に置いてあった鞄をつかんで立ち上がった。立ち上がったときの姿勢のままこちらを見ていた相田がすっと入口に向かっていったので、渡瀬も後に続いた。 

 研修スペースから出ると、慌ただしくしていた人たちはいなくなって、仕事を続けている人が数人残っているだけだった。
「お先に失礼します」
「お疲れー」
「お疲れ様です」
 普段は渡瀬も退社するときは「お先に失礼します」と言っていたが、いまのタイミングで言うと相田君の連れのように見られそうで癪だったので「お疲れ様です」と言うことにした。反応がなかったのは、前のやりとりに吸収されたのだろう。特に気にはならなかった。
 相田君にぶつかりそうになったので何かと思ったら、ドアの向こうのエレベーターホール(と言うほど広いスペースでもないが)から人が壁の中に消えていく途中だった。このまま出ると最後尾の人に気づかれて気遣われてしまいそうなタイミングだと思った。相田は壁に掛かっている額縁に入った絵の方を向いて、さらに歩みを緩めた。
「この絵って誰の絵でしたっけ」
 渡瀬も絵の方を向いた。様々な色のゆがんだ円や曲がりくねった線が無造作に描かれている水彩画で、名前の付いているものがモチーフになっていると思える部分はどこをどう切り取っても何一つなく、抽象画と呼ぶしかなさそうな絵だった。
「さあ……、社長のお子さんとか?」
 相田は口を半開きにして渡瀬の方を向いて、二秒ほど静止してから口を閉じ、絵の方へ向き直った。
「知らないなら適当なこと言わないでください」
 相田はそう言ってまばたきをすると、ドアの方へ向かって歩き出した。渡瀬は絵を横目で見ながら後に続いた。相田君はこの絵のどこが好きなのだろうか。私も嫌いではないが、どこが好きなのか説明しろと言われたら、一晩くらい考えないと自分の言葉は出てきそうになかった。
 オフィスから出ると、相田はエレベーターの間の壁に掌の指先の辺りを当て、一歩下がって左右のエレベーターの階数表示のランプを見上げた。エレベーターの間の壁では逆三角形がプリントされたボタンがオレンジ色に光っていた。渡瀬は右手で左腕を撫でた。

 先輩はランプがこの階に止まるより少しだけ早く渡瀬の目の前に来て、中に誰も乗っていないことがわかっているかのように、ドアが開くと同時にエレベーターに乗り込んだ。渡瀬は後ろにくっつくようにして後に続いた。操作盤の前のポジションを取られた渡瀬は落ち着かず、狭いエレベーターの真ん中で自分の場所を探していた。先輩は右側の壁に貼ってあった張り紙を見て、
「停電は来週……」
 とつぶやいた。渡瀬がそちらを見ると、先輩は渡瀬の方を真顔で振り返っていて、渡瀬が見返してまばたきをすると、前に向き直って少し顔を上げた。たぶん階数表示を見たのだろう。体が浮き上がるのを感じて渡瀬も階数表示を見ると、4と3の間だった。先輩が再び渡瀬の方を振り返ったのと、渡瀬が先輩の真後ろに移動したのはほぼ同時だった。先輩は渡瀬が移動したのがわかるとすぐにドアの方を向いて、右手を操作盤の近くにスタンバイした。ドアが開き、下の階に入っている会社の人たちがドアの周りを取り囲んでいるのが見えた。白系のシャツに黒系のパンツを穿き、袖を短くしている人ばかりだった。先輩は右手でたぶん開くボタンを押しながら、左手でドアを押さえていた。白系のシャツの人たちは先輩に軽く会釈しながら次々に乗り込んできた。全員が乗り込むと、先輩は左手を離し、ドアの方を見ながら右手を動かした。ドアが閉まっていった。完全に閉まると、狭い密室空間に名前を知らない人同士が同居している状態になった。白系のシャツの人たちは、エレベーターに乗る前の騒々しい雰囲気から、よそよそしい雰囲気に変わっていた。私は見た目は落ち着きを取り戻していたと思う。先輩との距離は縮まっていた。下を向くと、脚が真っ直ぐに伸びて、かかとがきれいに揃っていた。渡瀬は右側の壁を見た。

「どうぞ」
「ありがとうございます」
 白系のシャツの集団のうちドアに一番近い場所にいた人が丁寧にお礼を言って降りていき、他の人も会釈しながら次々に降りていった。渡瀬も白系シャツ集団に連なって狭い歩幅で歩きながら降りた。出口の方へ向かって歩こうとして、視界に何かが足りない気がして振り返った。
「え……?」
 渡瀬は一瞬ためらってからエレベーターの中を覗こうとした。
「わっ」
「わっ」
 陰から出てきた相田と渡瀬がぶつかりそうになった。渡瀬は身じろぎしながら二三歩後ろに下がった。靴音が響いた。相田はエレベーターから降りながら、
「すみません、貼り紙を見ていました」
 と言った。渡瀬ははっとなった。
「……停電の貼り紙、あった?」
「……はい、ありましたけど。主任も見てたんじゃないんですか?」
 そう言いながら相田は襟足に触れ、出口の方へ一歩踏み出した。渡瀬は何も答えずに相田と並ぶようにして出口の方へ歩き出した。微妙に違う靴音が交互に鳴った。出口のガラス戸から見える外はとても暗く見えた。



   3


 外に出ると空を見上げる癖はいつから始まったのだろう。小さい頃は空が好きだった記憶はない。ただ、駅からの帰り道の途中に街の方を見渡せる場所があって、そこで立ち止まってぼんやりと、水色の山の手前に集まったビルや塔のミニチュアのようなものを眺めていたことはあった。目を凝らすと小さな箱のようなものが動いていて、いま考えると車だとわかるが、当時それがわかっていたのかはわからないし、そもそもどんな気持ちでそんなことをしていたのか思い出すことはできていない。雲が浮かんだ空を見上げるのと同じ感覚だった気もするし、そうでない気もする。
 今日の空はいい空だった。色は黒というより紺に近く、ところどころに青みがかった灰色の雲が浮かんでいて、じっと一つの雲を眺めているとなんとなく動いているような気がして、目で追っていくとビルに差し掛かってビルの上を通り過ぎて、やっぱり動いていたのだとわかった。それから空全体を見渡すと、すべての雲がゆっくりと動いている感覚がどんどん広がっていって、自分が立っている地面の丸さと、空がずっと続いていることが感じられるのだった。
 警報機の音を伝染させながら電車が近づいてくるのがわかった。夜の電車を外から見ると別世界から現れたように感じるが、あの中から見た外は暗くて世界がなくなった感じがする。電車がさらに近づいてきて隣を通った。横目で追うと、映画の中のようだった。電車と音が遠ざかっていった。右側に相田君がいるのがわかった。
「今夜は月が出ていませんね」
「うん……、だけど、今日は空が明るいから、近くにいるんじゃないかな」
「ふうん……、これは街の灯りだと思ってましたけど」
「ああ……、そうかも。相田君、頭いいね」
「子供扱いしないでください。……本当はそう思ってないくせに」
 そうなのだろうか。渡瀬は普段から相田君はできる人だなと思っていたし、たぶん尊敬もしている。いまだってなるほどと思ったと思ったけど、本当はそう思っていなかったのかもしれない。相田は黙ってしまった渡瀬の方を少しの間見ていたが、やがて空に目を移した。
 夜道は空と同じくほんのり明るくて暗かった。四角い屋根の一戸建てや、二階建てのアパートの窓が見えて、部屋の中で電灯が点けられているのがわかった。あと少し歩くと大きな通りに出て、誰でもいい誰かのための明かりで覆われてしまう。その前に、もう少しこの空気の中でこの色の空を眺めていたい気分だった。
「主任、私、靴紐がほどけてしまったので、少し、待ってもらっていいですか」
「あ、うん」
 返事を待たずに相田は三叉路の又のところにあった小さな公園のベンチに向かっていって、向こう側の端に腰掛けてかがみ込んだ。渡瀬は側溝のふたの隙間につまずかないように注意しながら公園に入った。
 渡瀬は近くにあった鉄棒の足元に鞄を置き、両肘をついて空を見上げた。紺色の空に灰色の雲が浮かび、なんとなく動いているような気がして、じっと見ていると少しずつ右上の方へ動いているのがわかった。左が北だから、右上は……南、東、か。
「お待たせしました」
 相田君が意外と早く声を掛けてきた。
「じゃあ、行こうか」
 渡瀬は鞄を取り上げて遠くを見ながら公園を出た。相田は少し遅れて近くを見ながら着いていった。地面を覆うアスファルトの一部分が、どこからか届いた光に反応して星の生簀のように瞬いていた。

 相田君はずっと後ろを着いてきていた。だいぶ距離は近く、たまに窓ガラスに映る姿でいることはわかっていたので振り返らなかった。大きな通り(名前は忘れた)に入ってから、渡瀬はすれ違う人や車や店先を目の端で順々に追いながら歩いていた。パチスロ屋の自動ドアが開いて、賑やかな音をバックに人が出てきて、自動ドアが閉まると遠ざかっていた。飲み屋の外のテーブル席が賑わっていて楽しそうだった。渡瀬は自分があそこに座っていたら隣には誰が座っているのだろうと思った。
 目的の店があるビルの中に入ると、右と左に飲食店が並んでいて、真ん中に案内図があった。渡瀬が案内図に近づくと、相田が左の並びに入っていくのが見えたので、渡瀬は直角に向きを変えて着いていった。相田は渡瀬が着いてきていなくてもお構いなしというように、振り返らずに真っ直ぐ進み、突き当たりの店ののれんを右手で払って店の中に入った。渡瀬ものれんの同じ場所を右手の甲で持ち上げて続いた。のれんをくぐると、相田君が一瞬振り向いた気がした。店員が出てきた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」
「はい、十九時から予約していた、相田です。もう入れますか?」
「十九時からご予約の相田様、二名様でいらっしゃいますね。お席のご用意ができております、こちらへどうぞ」
 店員に連なって、席の間の石畳の上を歩いていった。店内は薄暗く、赤っぽかった。ところどころに人の手足が見えていた。天井から垂れ下がったすだれのせいで、顔までは見えなかった。すだれは竹でできたよくあるものに見えたが、赤色で大きな絵が描いてあった。隙間があってわかりづらいが、これは金魚だろうか? 列が右に曲がったので視線を移すと、今度は黒い絵が目に入った。形はやはり金魚に見えた。席ごとに違う種類の金魚が描かれたすだれの下で、人間の腕が肉や酒を持ち上げて金魚の絵に隠れ、下ろすときには減るかなくなっていた。まるで金魚が飲み食いしているようだった。
 一瞬、声を掛けられた気がした。立ち止まって前を向いた。のれんの前に相田一人が立っていて、のれんの向こうを覗いていた。渡瀬が近づくと、相田は渡瀬の方を向いて一歩下がって、
「なんでこんな席にしたんですか……」
 と言った。
「あれ、予約したの相田君でしょ?」
「あなたが私の名前で予約したんですよ。もう忘れたんですか歳ですか?」
 と身を乗り出して言うので、
「相田君、入れないよ……」
 と渡瀬が身じろぎもせずに言うと、相田はゆっくりと元の姿勢に戻った。近づいたとき、かすかにいいにおいがした。きっと香水かシャンプーだろう。渡瀬は半透明ののれんを分けて個室に入った。
「おお……」
 思わず声が出た。まず目に入ったのは、テーブルの中央に壁を背にして据え付けられた水槽だった。それほど大きなものではなく、せいぜい大ジョッキ程度だとは思うが(大ジョッキの大きさはよくわかっていなかったがそう思った)、装飾のせいか随分豪華で大きく見えた。中では何かが動いていた。金魚が泳いでいるのだった。その水槽を中心に弧を描いて壁に固定されているテーブルがあり、椅子が二脚、弧に沿って少し内側を向いて置かれていた。
「きれいだね」
 渡瀬は鞄を椅子の後ろにあった荷物入れに入れながら言った。
「確かにきれいですけど……、もう少し普通の席はなかったんですか?」
「それがここしか空いてなくて」
 渡瀬は席に着いて金魚を眺めた。相田は自分の席の足元に鞄を置いた。渡瀬は荷物置きがまだ半分ほど空いていたので相田に勧めようかと思ったが、やめた。
「ふうん……ふうん」
 二人は椅子と足の位置を定めていた。それが終わると、新鮮な感じはだいぶ薄れていた。
「失礼します」
 一瞬、社長室にいるような気がした。入ってきた店員は
「ご来店ありがとうございます」
 と言ってから、渡瀬の前におしぼり受けに乗ったおしぼりとお通しを置き、相田の前にもおしぼりとお通しを置いた。渡瀬は目の前に何か置かれるたびに軽く会釈していたが、相田はただ黙って置かれる様子を見ていた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
 そういえば、まだメニューも開いていなかった。
「ええと……、とりあえずビールを、グラスで。相田君は? あ、メニュー見てからでも……」
「私も同じものを」
「グラスビールおふたつですね。お食事は後ほどお伺いする形でよろしいでしょうか?」
「はい、それで」
「ご用の際はそちらの呼び鈴を振ってお呼びください。失礼いたします」
 店員が出ていった。二人が同時におしぼりを手に取った。
「相田君、ビールでよかったの? 確かあんまり飲めないんじゃなかったっけ」
 渡瀬はそれをどこで聞いたのか覚えていなかったが、どこかで聞いて知っている気がしたのでそう言った。
「いえ、いいんです。それに、飲めないんじゃなくて酔わないだけです」
「へえ、強いんだ」
「味もよくわからないんですが、まずいというわけではなくて、なんとなく味気ないというか……。ソフトドリンクと同じような感覚なんです。なので、わざわざお酒を飲む必要はないというか、もったいないので」
「ふうん……」
 渡瀬は手元に初めから置かれていた箸でお通しをつまんで上下に動かしながら眺めた。横で相田君が頬杖をついて水槽を眺めているのが視線を横に動かさなくてもわかった。もったいないというのはお金のことだろうと思ったが、なんとなくそれだけではない気がした。値段が高いということはそれだけ手間がかかっているということで、例えば原材料がひとつ増えるだけでそれに関わる物や人が乗算的に増えていく。そのつながりを無駄にしてしまうのがこわいという感覚がもったいないという言葉になったのではないだろうか。
「失礼します」
 店員が入ってきた。さっきと同じ人だ。
「お飲み物をお持ちしました」
 店員は渡瀬の動かしたコースターと、相田の前の初期配置のコースターの上にグラスビールを置いた。
「お食事のご注文はよろしかったでしょうか?」
 店員と渡瀬は同じタイミングでメニューの冊子に視線を送った。
「あ……、はい、まだです」
「かしこまりました。失礼いたします」
 相田は目の前に置かれたビールをじっと見つめていた。渡瀬も一瞬そちらへ目をやった後、自分のビールを見た。

 店員がいなくなった後も、渡瀬と相田はじっとビールを眺めていた。泡が少しずつ、たぶん一粒ずつ、空気かビールと混ざって消えていった。家で酒を飲まない渡瀬にとって、つがれたばかりのビールをじっと眺める機会は稀だった。渡瀬はビールを視界に入れながら金魚に焦点を移した。金魚はゆっくりと水面に向かって上昇しているところで、このまま空気に溶けて消えてしまいそうな気がした。
「そろそろ始めましょうか」
 相田は渡瀬のビールの方を見ながら言った。渡瀬は相田のビールを見返した。
「……乾杯する?」
「ええ、しましょう」
 相田はグラスの上の方を持って持ち上げ、渡瀬の方へ近づけた。渡瀬は自分のグラスの中ほどを持って、
「じゃあ、とりあえず、今週もお疲れさまでした」
 と言って相田のグラスから数センチの位置まで近づけた。
「お疲れ様でした」
 相田は自分のグラスの位置を少し下げて、自分のグラスの淵を渡瀬のグラスの泡の辺りに触れさせた。ガラス越しに泡が少し揺れた気がした。互いのグラスはほぼ垂直になっていたので、ビールがこぼれることはなかった。グラス同士はすぐに離れた。離れた後も、渡瀬は二秒間自分のグラスの泡の辺りを見ていた。相田は自分のグラスをゆっくりと口元に持っていってから傾け始めた。泡はどこかとの平行を保つようにビールの水面を覆い続けていた。液体が口の中に入ると同時に舌の奥で受け、すぐに喉の方へ送り込む。喉は上下に動いて、液体を食道に運ぶ。その繰り返しを二度、三度、四度目でグラスを垂直に戻しながら唇から離した。舌と喉がちくちくする。味は、よくわからなかった。グラスをコースターに置いて見ると、泡はうっすらと残っていた。相田と渡瀬はほぼ同時にグラスをコースターに置いていた。渡瀬のビールは半分ほどに減っていて、相田のビールは三分の一ほどまで減っていた。渡瀬の視界の右側から腕が伸びてきてメニューに手を掛け、ゆっくりと上に引き抜かれた。メニューが差されていた台は少しだけ揺れた。
「食事、適当に頼みますね」
「うん、お願い」
 相田はメニューの冊子のページを一通り素早く繰って、先頭のページを再び開いた。渡瀬は左手を右腕の陰に持っていって、左手の甲で右肘から二の腕にかけてをさすりながらビールを一口飲んだ。相田がページをめくった。相田のお通しはまだ残っていた。渡瀬は自分のお通しも残っていることを思い出した。相田がページをめくった。渡瀬は右手で箸を上から二本まとめてつかみ、箸の先で弧を描きながら人差し指と中指の間に二本を挟んで、親指の背も使って中指を抜きながら弧が円になるようにぐるっと回して親指と人差し指の間に二本を落ち着け、下になった方を薬指で支えながら、上になった方を親指を添えつつ中指と人差し指で持ち上げ、お通しを挟める位置まで動かしてから人差し指と中指を前後に動かしてお通しをつまみ、腕を内側にひねって口まで運んだ。
「主任って箸の持ち方、きれいですよね」
 相田がメニューから顔を上げて言った。
「そう?」
 私はうれしそうだったと思う。
「でも、相田君のペンの持ち方の方がきれいだよ」
「え……」
 渡瀬は話を飛ばすのが早かったかと思って少し後悔した。
「……私は逆に、あんな持ち方でよく疲れないなと思いますね。というか、きれいとか良し悪しじゃなくて、剛か柔かというイメージです」
 相田が顔を掻いた。
「でも、字がきれいな人ってみんな相田君みたいな持ち方だと思うけど」
「字はきれい汚いじゃなくて個性なので。最低限読み取れればいいんですよ」
 読み取れない字を書く人なんてたくさんいるが、この子が言いたいのはそういうことではないと思った。
「私、渡の又のはらいが自分らしく書ける大人になりたいんだけど、十回中六回は失敗するんだよね」
「わかります。私も学生時代は田をどれだけ窓のように書けるか、田のつく友人と競っていました」
「わかってない気がする……」
「わかってますよ」
 渡瀬の頭の中には学生の相田が浮かんでいて、相田の頭の中にも学生の渡瀬が浮かんでいた。
 窓のない個室の中にいる二人は、外の天候、気温だったり風向きだったり降雨だったりをまるで意識していなかった。それらが少し変わったところで二人にはそれがわからなかったし、わからなくても問題はなかった。個室から見た外は店のフロアだった。外からは人がざわめく音が聞こえてきていた。何人もの声が混じり合って、誰かの声ではなく人の声になっていた。耳を澄ませば聞き分けられたかもしれないが、二人はそれをしていなかった。ただ相手のことや自分のことを考えていた。個室の中には、相手と自分のこれまでとこれからがふわふわと頼りなく漂っていた。それはビールの泡のように、目にとまることなく消えたり、また注がれたりしていた。
 
 相田が注文した料理が三皿、渡瀬と相田の間に並んでいた。渡瀬は相田の方を見た。相田は手洗いに行っていて不在だったが、そこは相田の場所になっていた。昼食を食べて、会社に戻って、研修をして、変な絵を見て、エレベーターで降りて、空を見ながらここまで歩いてきた時間が積み重なっていた。
 誰かが入ってくる気配がして、戻ってきた相田が自分の席に座った。
「お帰り。飲み物頼むけど、ウーロン茶でいい?」
 渡瀬は用意していた言葉を発話した。相田はおしぼりで手を拭きながら渡瀬の方を見て、
「はい、ありがとうございます」
 と言って渡瀬に向かって頭を下げた。渡瀬は微笑んで、手を伸ばして呼び鈴を持ち上げて左右に振った。鈴が鳴る音が一拍ずつ静かに出てきた。渡瀬が振っている速さと音がずれているのが不思議だった。どこかで聞いたことがあるような音だった。
「お呼びでしたでしょうか?」
 すぐに店員が入ってきた。
「見ればわかるでしょ」
 相田は渡瀬の手元の呼び鈴を見ていた。渡瀬は呼び鈴を振るのを止めて右を見た。店員は笑顔で相田の後ろ姿を見ていた。
「……あ、飲み物の注文いいですか?」
 渡瀬は笑顔を心掛けて言った。店員は渡瀬の方を向いて、
「はい、承ります」
 と言った。渡瀬は誰に向けるでもなく人差し指を立てて親指を中指に添えながら、
「ウーロン茶とウーロンハイ、お願いします。以上です」
 と言った。
「ウーロン茶とウーロンハイ、おひとつずつですね。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「はい」「だから以上って言ってるでしょ」
「失礼します」
 店員は金魚に向かっておじぎをして出ていった。相田は少しの間呼び鈴を見た後、
「マニュアル対応しかできないなら、全部電子化しちゃえばいいんですよ」
 と言って、枝豆を取って口元に持っていって、実を思い切り口の中に押し出した。
 渡瀬はマニュアル対応というよりも丁寧な対応だなと感じていた。というかマニュアル対応ってなんだろう。
「まあ、電子化だって楽じゃないことはわかりますけど」
 相田は枝豆の皮を弄びながら言った。
「相田君って店員さんを人間扱いするよね。私、それってすごくいいと思う」
 渡瀬は手に取った実が入ったままの枝豆を眺めながら言った。枝豆の皮はうるおいがあって、白いうぶ毛がうっすらと生えていた。中に入ってみたいとは思わなかった。枝豆の皮を皮入れ用の皿に入れようとしていた相田が手を止めて渡瀬の方を見ていた。
「……渡瀬さんは本当に甘ちゃんですね。よくここまで生きてこれましたね」
 相田は皮入れの方を見て、つかんでいた皮をそこに入れた。
「ははは、これでも最近は甘いもの控えてるんだよ」
 渡瀬は持っていた枝豆を下目で見ながら皮の下側をゆっくり押した。皮の上側が少しずつ開いて、実が顔を出した。相田は次の枝豆をつまみ上げた。
「まあ、生きてこれたからここにいるんでしょうけど。いい世の中ですよね」
「相田君に会えたしね」
 相田の枝豆から実が飛び出してグラスに飛び込んだ。
「あ……」「あ……」
 枝豆の実はグラスの側面で弾んでから少しだけ残っていた液体の表面に水しぶきを上げて着水し、揺れながら鈍く輝いていた。
「……」
「……こんなの渡したら、店員さんバグっちゃいますね」
 相田はそう言って実が一粒残された枝豆の房を小皿に置き、その手で持ち上げたグラスを傾けて残っていた液体を枝豆の実ごと口に流し込んだ。渡瀬は顔を出した枝豆と一緒に相田の方を見て、
「相田君の方がいい人じゃん」
 と言った。
「いい人と一緒にいるときくらいはいい人でいてもいいかなーと思ったんで」
 相田はグラスを置きながらもう片方の手で襟足を引っ張りながら言った。
「じゃあ、一人のときはいい人なんだ」
「なんでですか」
 渡瀬の前に一人で過ごしている自分が浮かんだ。いい人というか自然だったりいい人じゃなくなったりした。ウーロン族が到着して、一人の渡瀬は隠れた。

「主任、だいぶ酔ってるでしょう」
 渡瀬が相田を見た。
「ウーロン茶、飲んだ方がいいですよ」
 渡瀬はウーロン茶を見て、黙って持ち上げて飲んだ。視界の端で、相田が呼び鈴を振るのが見えた。渡瀬はウーロン茶のグラスをつかんだまま金魚を見た。金魚は相変わらず浮き上がったり沈んだりしていた。私とは大きさも形も心も違う金魚。もし私がこの水槽の中で一生を過ごすとしたら、過去の記憶はあった方がいいのか、なくした方がいいのか。店員さんが来て金魚ではなく相田君を見ながら会話を始めた。渡瀬は椅子をずらして、かがみ込んで鞄の中から財布を見つけ出し、一万円札と名刺を店員に差し出して「領収書ください」と言った。

 店員がいなくなると、渡瀬は腕時計を取り出して左腕に着けた。相田はスマートフォンの背中を撫でながら金魚を見ていた。腕時計の裏側が肌に触れて冷たかった。その冷たさは、大きな金魚に見送られながら店を出て、ビルを出て夜風を感じるまで続いていた。渡瀬は手足を思い切り伸ばした。



   4


 家に入ると、暗い玄関に一筋の光が漏れていた。玄関とリビングの間の細長いキッチンの天井に埋め込まれた電灯が点いているのがわかった。私は玄関脇に敷かれた新聞紙の上の積まれた古本の横に鞄を置いて靴を脱いだ。玄関の明かりを点けずにキッチンへのドアを開くと、玄関へ向かう光の筋がだんだん広がっていき、その筋から溢れ出た光によって玄関全体が白みを帯びてキッチンと混ざった。キッチンの向こうにリビングが見えた。電灯は点いていなかったが、キッチンの明かりが浸食し、カーテンが全開になった窓のガラスにその姿が映し出されていた。私は無性に腹が立ってキッチンの電灯のスイッチを押した。部屋の中の唯一の明かりが消え、カーテンの間からほんの少し赤みがかった紺色が入ってきて部屋を満たした。私はリビングに歩いていって窓に向かって立ち止まり、鼓動が静まっていくのを感じながら窓の外を見つめた。数階建てのビルに囲まれた片側一車線の車道のある路地は、紺色に覆われていた。同じ色に染まった部屋と路地はつながっているように見えた。それに心地よさを感じていることに気づき、胸に手を押しつけながら目を閉じた。紺色が遠ざかり、黒が広がった。喜びが引いていき、安堵したのも束の間、黒の隅から黒い水が流れ込み始めた。水はにわかに勢いを増し、濁流となって跳ね回った。思わず目を開けた。再び入り込んできた紺色が濁流を裏側へと追いやって、世界がまた少しずつ凪いでいった。



   5


 自然に目が覚めた。濃い青が部屋を満たしていた。
 天井を見ていた。地雷がくっついていた。

 うつぶせになった。薄暗かった。影ができていた。

 猫のように体を伸ばした。掛け布団が膨らんだ。
 立ち上がった。掛け布団がずり下がって、敷き布団の上に無造作に落ちた。布団の中にあったものが溶け込んできた。

 冷蔵庫を開けた。冷蔵庫が開く音がした。冷たい空気が流れ込んできた。
 ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
 コップに注いだ。コップが透明な水で満たされた。
 コップの水を口に含んだ。
 飲み込んだ。体温よりだいぶ冷たい水が喉から食道を通って胃に流れ込んだ。冷たさはすぐに薄れた。

 顔を洗った。
 昨日体を拭いたタオルで水滴を拭いた。
 においを嗅いだ。
 洗濯機にタオルが放り込まれた。

 着替えて散歩に出掛けた。
 机の上に腕時計がうつぶせの姿勢で寝かされていた。背中が触れて冷たかった。

 青さはだんだん薄れていった。

(了)  



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